【八正道とは?】

【八正道とは?】

『八正道』とは何でしょうか?

大辞林に、こう書いてあります。

「仏陀が最初に説いた仏教の基本的な教えの一。
涅槃(ねはん)に至るための八つの正しいおこない。
すなわち、
正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定。」

ブリタニカ国際大百科事典には、こう書いてあります。

「仏教で説く実践の徳目。

一般人の生存は苦であり、
その苦の原因は妄執によって起るのであるから、
妄執を完全に断ち切れば完全な悟りを得ることができると考え、
その状態に到達するための修道法として説かれた8種の正しい実践をいう。
すなわち、
正しい見解(正見)、
正しい思惟(正思)、
正しい言語行為(正語)、
正しい行為(正業)、
正しい生活(正命)、
正しい努力(正精進)、
正しい想念(正念)、
正しい精神統一(正定)
の8つをいう。」

現代社会+政治・経済用語集には、こう書いてあります。

「苦を滅して解脱し、
涅槃(ねはん)にいたるための八つの正しい行いをいう。

正しく真理を見る『正見』を目的として、
正しい思惟『正思』と、
正しいことば『正語』、
正しい行動『正業』によって、
正しい生活『正命』をおくり、
正しい努力『正精進(しょうしょうじん)』が行われる。

すなわち、
正しい日常生活に基づき、
さらにそこから心を常に正しい状態に維持する力『正念』が確立し、
最後に正しい禅定(ぜんじょう)(=心の統一)『正定(しょうじょう)』が実現し、
悟りの智慧(ちえ)が生じて、
正しく真理をみることができるものである。

八正道は中道といわれる。」

倫理用語集には、こう書いてあります。

「苦を滅して解脱(げだつ)し、
涅槃(ねはん)にいたるための八つの正しい行いであり、
修行の基本となる徳目。

次の八種の修行方法をいう。

『正見』は物事を正しく観ずること。

『正思』は、
貪(とん)(貪欲)・瞋(じん)(怒り)・痴(ち)(愚かさ)を離れて心を正しく落ち着かせること。

『正語』は嘘や中傷をいわず、
正しく言葉を語ること。

『正業』は殺生などを避け、
正しい行為を行なうこと。

『正命』は戒律に従って正しい修行生活を送ること。

『正精進(しょうしょうじん)』は正しい方向に努力すること。

『正念』は万物を誤って常なるもの・快楽に満ちたものと見ることなく、
無常で苦に満ちたものと正しく念じること。

『正定(しょうじょう)』は正しい瞑想(めいそう)(禅定(ぜんじょう))を行なうこと。」

岩波 仏教辞典には、こう書いてあります。

「八つの支分からなる聖なる道の意。

苦の滅に導く八つの正しい実践徳目。

〈八聖道〉〈八支正道〉ともいう。

1)正見(正しい見解)、

2)正思(正しい思惟)、

3)正語(正しい言葉)、

4)正業(正しい行い)、

5)正命(正しい生活)、

6)正精進(正しい努力)

7)正念(正しい心の落着き)

8)正定(正しい精神統一)

の八つをいう。

釈迦の最初の説法(初転法輪)において説かれたと伝えられる。

四諦の教えにおいては道諦の内容を構成する。

また、
苦楽の二辺(いたずらな苦行と俗楽にふけるという二つの極端)を離れた中道の具体的実践方法としても説かれる。」

『ブッダの教えがわかる本』(著者 服部祖承 大法輪閣)

には、こう書いてあります。

「仏教には、
いろいろな修行法がありますが、
その中でも最も基本的で中心になるものが、
『八正道』です。

八正道とは、

①正見・②正思惟・③正語・④正業・⑤正命・⑥正精進・⑦正念・⑧正定の八つの正道のことです。

この正道の『正』『正しい』ということは、
すぐれたとか、
善いとかの意味だけでなく、
中道を守る修行であるというところから正しいのです。

この中道とは、
人間の生き方として決して極端に走らないということ。

そしてすべてに適切・適当であるということ、
これは度を過ごさないということです。

つまり、
あるべきところに、
あるべき状態であるということです。

また、
するべきときにするといったこと、
これが適切・適当であり、
中道なのです。

バランスの取れたあり方です。

これが八正道の修行なのです。

(中略)

正見とは、
正しくものを見るということです。

この正しくものを見るということは、
単に肉眼で観察して詳しく見るということではなく、
知見ということでもあります。

つまり、
その内容を見て知ることです。

では、
何をどう見て知るのでしょうか。

それは第一に、
因果観といわれ、
因果関係を認めることです。

そこに偶然というものはなく、
理由なくして存在するものはないということです。

第二は、
縁起観といわれ、
人間が生きているということが、
どんなに多くの人びとのはたらきや自然からの恩恵によるものかと知ることです。

この因果観と縁起観の二つを基本的な考え方として、
仏教の筋道を理解するのです。

その結果、
仏教の正しい世界観と人生観が得られ、
心は正しい方向に向けられ、
ものの考え方が正しくなります。

したがって仏教の修行でも、
まず第一に心を正しい方向に向けることが大切であり、
そして正しい計画を立てることが肝心です。

そのあとは、
正しい軌道に乗り、
容易に進むことができるのです。

これが正見です。

(中略)

八正道の第二は、
正思惟です。

正思ともいいます。

これは、
正しい考え方をしようということです。

この正しいということは、
先にも述べましたが、
中道ということで極端に走らず、
すべてに適切・適当であるということです。

したがって、
正しい考えとは、
バランスの取れた、
まさに適した考えということです。

私たち人間は、
無常の世の中に生きているのですから、
どのように生きたらよいかは、
大きな課題です。

そのために常に思い考えることは大切です。

ですから、
この思い考えることは正しくなければなりません。

では、
どのような考え方が正しいのでしょうか。

それについて、
次の三つの考え方がありますので、
ご紹介しましょう。

第一には、
貪欲(欲望・貪り)のない考え方です。

貪欲には愛欲や所有欲、
それに名誉欲・利益欲・権勢欲などがあります。

この欲に一度取りつかれると、
なかなか離れることはできません。

たとえば、
のどが渇いたときに塩水を飲むようなものです。

いくら飲んでも渇きがなくなるどころか、
いっそうひどくなるばかりです。

欲とはこのようなものですから、
欲にからんだ考え方は正しくはありません。

第二には、
瞋恚(怒り)のない考え方です。

瞋恚とは、
怒り・腹立ちのことです。

人間は感情の動物といわれるように、
自分の思うようにならないと不機嫌になり、
怒り、腹を立てるものです。

このような腹を立てた心で、
いくら考えても正しい考えとはなりません。

第三には、
愚痴(愚かさ)のない考え方です。

この場合の愚痴とは、
真理に対して無知で、
一切の道理に通じる智慧が欠けていることです(一般にいう『グチをいう』ということとは異なります)。

この愚かさに気づき、
常に全体を考え、
道理の上から正しく考えることが大切です。

以上の、
貪欲・瞋恚・愚痴は、
仏教では『三毒』といって、
あらゆる煩悩の中で最大のものとされています。

この煩悩を断つことも、
八正道の大切な修行です。

正思惟を行なうためには、
この三毒を断たねばなりません。

つまり、
欲望に執われず、
また感情に左右されず、
そして自己中心的でなく、
常に全体を考え、
しかも道理にかなった考え方をするよう心がけることが、
正思惟なのです。

(中略)

八正道の第三は、
正語です。

これは、
正しい言葉で、
正しく話そうということです。

人間の行なう行為には、
次の三つがあります。

第一は、
身体で行なう行為、
これを身業といいます。

第二は、
口で行う行為、
口業といいます。

そして第三は、
心で行う行為、
意業です。

この三つを仏教では、
身口意の三業といって、
人間の行なうすべての行為の根源としています。

正語は、
三業のうちの口業です。

(中略)

この正語を行なうためには、
次の四つの悪業から離れることが大切であると説かれています。

第一に、
妄語。

これは、
うそをついたり、
いつわりをいうことです。

これは誰が考えても正しくはありません。

真実を語らねばなりません。

第二は、
悪口。

これは、
人をあしざまにののしることです。

人の欠点や弱点をさらけ出して罵倒したり、
悪口雑言をいうことは、
正しくはありません。

第三は、
両舌。

これは、
二枚舌ともいい、
一つのことを二様にいうことです。

たとえば、
他人の仲を裂くために二人の人に対して異なることをいったり、
一方で聞いたことを他方に告げ口をし、
両方の間に、
不和を生じさせるような行為です。

また、
ねたみや中傷で、
他をおとし入れて自分の利益をはかる行為でもあります。

これは離間語といって、
正しくありません。

第四は、
綺語。

これは、
意味のない無益なおしゃべりのことです。

こびたり、
へつらったり、
機嫌をとり、
うわべは美しく巧みに飾ってはいるが、
結局、
人を惑わすような言葉です。

以上のような、
口の悪業から離れ、
真実を語り、
正しくほめたり、
温かいやさしい言葉をかけたりして、
お互いが協調、
融和できるように、
有益な言葉を語ることが正語なのです。

(中略)

八正道の第四は、
正業です。

これは、
正しい振る舞いをしようということです。

正しい振る舞いとは、
正しい行為や行動、
行いのことです。

人間は、
生きている限り、
絶えず何らかの行為や行動をしています。

そして、
この人間の行為、
行動の起こる根源は、
身口意の三業によると、
前項で申しました。

この正業は、
身体で行なう行為、
行動ですから、
身業です。

では、
この正業を正しく行なうためには、
どうすればよいのでしょうか。

正業には、
能動面と抑制面の二つがあります。

能動面は、
私たちが積極的になすべき行為です。

そして抑制面は、
私たちが、
おさえ、
つつしむべき行為のことです。

(中略)

正業を行なうためには、
善きことを身をもって行い、
自分の心を浄めるようにつとめることです。

そしてさらに行為をつつしむことにより、
心を浄くし、
反省の心や少欲知足の心を養い、
貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の心を薄めていくことです。

またさらに、
悪い行為として、
次の三悪があります。

それは、
殺生・偸盗・邪淫であります。

これは、
身体的悪業とされています。

したがって、
この三悪業から離れることです。

殺生とは、
生きものを故意に殺すこと。

偸盗とは、
他人のものをそれと知りながら盗むことです。

そして邪淫とは、
正しくない不倫の性行為です。

仏教では、
これらの悪業から離れるために、
五戒という戒律がありますが、
この中に不殺生戒、
不偸盗戒、
不邪淫戒として、
定められています。

このような悪業から離れて、
生きものを愛護し、
財物や教法などを惜しむことなく施し与え、
正しい夫婦関係を保つことが正業です。

この正業も正しい心、
前項の正思惟の結果として生きるものであります。

(中略)

八正道の第五は、
正命です。

これは、
正しい生活をしようということです。

この正しい生活とは、
正しい手段によって生きましょうということ。

正しい手段とは、
先の正業の考え方に反しない方法でということです。

つまり、
自分の行為をつつしみ、
心を浄く、
反省の心や少欲知足の心を養い、
貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩から離れるように生活することです。

(中略)

正しい生活法の中には、
正しい規則的な生活をすることも含まれています。

正しい規則的な生活とは、
夜は何時に寝て、
朝は何時に起きるのか。

また、
食事の時間や回数、
そしてその量や質なども、
自分に適したものであるかどうか。

さらに、
会社や学校などへ出かける時間など、
労働時間や勉学の時間、
その他休息や運動・娯楽など、
すべての日々の生活を規則的にすることです。

このような生活をすることによって、
健康を維持し、
仕事の能率も上がることでしょう。

規則的な生活は、
どんな境遇の人にも極めて大切なことであって、
これがよく守られているかどうかによって、
その人が成功するかどうかが決まります。

正命は、
正業を実践する受容な場であるのです。

ですから、
この正命も能動と抑制の両面があり、
正業の精神が生かされねばなりません。

(中略)

八正道の第六は、
正精進です。

これは、
正しい努力をしようということです。

正しい努力とは、
善の理想に向かって、
勇気をもって邁進することです。

精進という言葉は、
日常よく使われます。

心をひとすじにして進む、
懸命に努力するということです。

この精進に対して、
懈怠(なまけ)をいう言葉があります。

これは、
善の理想に向かって進むことを怠ることですから、
邪悪の面に進むことです。

ですから、
これを邪精進といいます。

(中略)

仏教での正精進は、
さらに自分自身の心のあり方を常に抑制し、
修行の目的が達せられるように、
正しく維持することと説かれています。

要は、
心で心を抑制する努力を続けることです。

つまり、
なまけず、
勝手気ままな心に流されないようにすることです。

(中略)

八正道の第七は、
正念です。

これは、
正しい憶念をしようということです。

念とは、
憶念のことですが、
記憶して忘れないということです。

そしてこの念には、
経験したことを記憶にとどめ、
その記憶したことを思い出して再現するという意味があります。

つまり、
仏教者として必要なことは、
常に心にかけ、
忘れないでおくということです。

(中略)

八正道の第八は、
正定です。

これは、
正しい精神統一をしようということです。

定とは、
定意(意を定め、しずめること)とか等持(心を等しく平静に持つこと)ともいわれます。

また読書三昧や道楽三昧というときの三昧のことでもあります。

三昧とは、
そのことに専心し、
熱中することです。

しかし正定は、
正しい三昧でなければなりません。

また正定は、
禅定とも静慮ともいわれ、
やはり正しい精神統一のことです。

この禅定は、
仏教の大切な修行法であって、
六波羅蜜の一つで禅定波羅蜜ともされ、
お釈迦さまも、
菩提樹下で悟りを開かれたとき、
この禅定、
つまり正定を実践されたのです。

では、
この正定を修めるためには、
どうすればよいのでしょうか。

そのためには、
坐禅という形が基本とされています。

坐禅は、心を訓練する方法です。

それには、
まず姿勢を正しくして坐り、
次に呼吸を整え、
そして心を整えるのです。

通常これを二十分から五十分間持続します。

この訓練を持続することによって、
広やかな心が養われてきます。

やがて今まで気づかなかったことに気づき、
執われから解放され、
いわゆる心眼が開けてくるのです。

ところで、
経典によれば、
この正定は四禅定であると説かれています。

この四禅定とは、
禅定の深まりゆく過程を、
第一禅から第四禅として説いたものです。

第一禅(初禅)は、
人が静かに坐って体と呼吸を整え、
ホッとした安らかな落ち着いた気持ちになること。

第二禅は、
心の安静とともに、
法悦ともいうべきよろこびを味わうこと。

第三禅は、
さらに心が落ち着いてきて集中が深まり、
常識的な意識が休止して雑念が去り、
法悦のよろこびもしずまって、
より落ち着いて、
静かに解放された安楽な心となってくる状態のこと。

第四禅は、
心の落ち着いた集中が、
さらに深まり浄められ、
安楽の想念さえもなくなって、
心はひたすら澄んでくる状態のこと。

要するに、
正定とは、
単なる精神統一ということにとどまらず、
執われのもととなるあらゆる思考を静め、
心眼に目覚めることなのです。」(54頁〜69頁)

八正道を学び、

真理を究め、

修行を実践して、

悟りを開きましょう❗️

(推薦図書)
『ブッダの教えがわかる本』
(著者 服部祖承 大法輪閣)
↓↓↓


FB_IMG_1731538148624-bbf4f.jpg

この記事へのコメント