【大我とは?】

【大我とは?】

『大我』とは何でしょうか?

広辞苑に、こう書いてあります。

「①永遠なる真如の自在のはたらき。
涅槃(ねはん)の称。真我。

②宇宙の本体として唯一絶対な精神を想定する形而上学説において、
その本体を個人の我に擬していう語。」

大辞林には、こう書いてあります。

「①悟りによって得られる絶対に自由な在り方。真我。

②利己的な立場を克服し、より広く公共的な立場をとる主体性。」

新明解国語辞典には、こう書いてあります。

「①我見・我執を離れた、自由自在な心の境地。

②宇宙の、唯一絶対の真理。」

明鏡国語辞典には、こう書いてあります。

「①仏教で、個人的な狭い自我を捨て、一切の煩悩から離れた自由自在の境地。

②インド哲学で、宇宙の本体として想定される唯一絶対の精神。」

新漢語林には、こう書いてあります。

「①宇宙の本体としての唯一絶対の精神。

②せまい見解や執着を離れて、自由自在な働きをする境地。」

岩波 仏教辞典には、こう書いてあります。

「人間の個体的存在性が無常・苦・無我・不浄であるのに対し、
如来の法身を常・楽・我・浄と考える如来蔵思想において、
このうちの〈我〉(atman)をバラモン(婆羅門)思想におけるそれとの混同を避ける意味で〈大我〉ということがある。

インド正統のウパニシャッドの哲学では、
人間の個体的存在の根底に常一主宰すなわち永遠普遍自由なるアートマン(我)が存在し、
それがその本質において宇宙の実在であるブラフマン(brahman梵)であると考える。

それに対し、
仏教は人間存在を五蘊の仮和合と見なし、
人間および人間的世界内の事象に関してそれらがいずれも無常・苦・無我なることから〈アートマンに非ず〉という意味で無我説を主張し、
渇愛という人間の個体性の原理を梵行によって滅尽して、
本来無我なる個我・個体的存在性が解消した状態を宗教理想としての解脱・涅槃とした。

しかし人間の無常・苦・無我・不浄なる存在状態の否定態である涅槃の境地は、
対照的に常・楽・我・浄と考え得る道理であり、
この常・楽・我・浄という形容は大乗仏教の、
殊に如来蔵思想において如来の法身に対して、
それに波羅蜜(paramita、完全性、最上なる徳目)という語を付することによって、
その積極性において適用された。

殊にこれら四者のうち我(我波羅蜜)は大乗涅槃経寿命品における『若し法にしてこれ実、これ真、これ常、これ主、これ依にして性不変易ならばこれを名づけて我となす』という記述に見られるように、
バラモン的アートマンの性格を復活している。」

『大我』の対義語は『小我』です。

小我とは、

『自分一人にとらわれた狭い我。
利己的な立場の主体性』

のことです。

大我と小我に関して、

「逆境を越える『こころの技法』」(著者 田坂広志 PHP文庫)

の中に、こう書いてあります。

「 この『世の中のために、多くの人々のために』 

という意識が深まっていくと、

これも自然に、

『こうしたら自分に有利だ』 

とか、

『どうすれば自分が得するか』

といった自分中心の発想、

『私心』 

が消えていくのです。

言葉を換えれば、

『私心』、

すなわち 

『小我』 

が消えていき、

『世の中のために、多くの人々のために』 

という 

『大我』 

が、心の中に育ってくるのです。」(218頁)

キーワードは 

『世のため、人のため』 

です。

換言すれば、

『博愛主義』 

『慈悲心』 
 

です。

小我(エゴ)を捨てて

大我(無条件の愛)に生きる人々が増えると

世界は平和になり

文化の様相も変わっていきます。

大我に生きる高い意識を持った人々が増大し、

クリティカルマス(物事が劇的に広がり、定着するために必要な最低人数)に達すれば、

『世界平和』 

と 

『人類全体の幸福』 

は実現します。

ということで、結論はこうなります。

(結論)
『小我』を捨てて『大我』に生きよう❗️

(推薦図書)
「逆境を越える『こころの技法』」
(著者 田坂広志 PHP文庫)
↓↓↓


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