【雲烟過眼とは?】

【雲烟過眼とは?】

雲烟過眼(うんえんかがん)とは

『雲やかすみがたちまち目の前を通り過ぎて跡形もなくなるように、物事に深く執着しないこと』

です。

雲烟過眼の心境が大事です。

『坐らぬ禅』
(著者 ひろさちや 佼成出版社)

の中に、こう書いてあります。

「あるとき、釈尊は弟子たちに質問されました。

『比丘たちよ、
まだわたしの教えを聞かない凡夫は、
楽受をうけ、
苦受をうけ、
非苦非楽受をうける。

比丘たちよ、
すでにわたしの教えを聞いた弟子たちも、
楽受をうけ、
苦受をうけ、
非苦非楽受をうける。

では、
比丘たちよ、
わたしの教えを聞いた弟子たちと、
まだわたしの教えを聞かない凡夫と、
いかなる違いがあるのか?』

これが試験問題です。

“受” というのは、
感受性だと思ってください。

外界の事物に触れたときに感じる感覚です。

美しい花を見て、
〈ああ、美しいな⋯⋯〉
と思うのが楽受で、
不快な対象に
〈汚い〉〈いやだな⋯⋯〉
と思うのが苦受です。

いいとも悪いとも思わないのが非苦非楽受です。

この感受性(受)は誰にでもあります。

それじゃあ、
仏教を学んだ者と学ばぬ者との差はどこにあるか?

釈尊はそのように出題され、
誰も返答できないので、
ご自身が言われました。

『比丘たちよ、
まだわたしの教えを聞かぬ凡夫は、
苦受をうけると、
嘆き悲しみ、
声をあげて叫び、
胸をうち、
心が狂乱するのである。

それは、
あたかも第一の矢を受けて、
続けて第二の矢を受けるに似ている。

それ故、
凡夫は苦受を受けると彼は瞋恚(いかり)を感じる。

そしてまた彼は、
そこで欲楽を求める。

なぜかといえば、
比丘たちよ、
愚かな凡夫は欲楽をほかにしては苦受から逃れる方途を知らないからである。

その結果、
彼のうちに眠れる貪欲が彼を支配するようになる。

要するに愚かな凡夫は、
楽受をうければそれに繋縛(けばく)され、
もし苦受をうければそれに繋縛され、
またもし非苦非楽受をうければそれに繋縛されるのだ。

けれども、
比丘たちよ、
すでにわたしの教えを聞いた弟子たちは、
苦受をうけても嘆き悲しまず、
声をあげて叫ぶこともなく、
胸を打たず、
心が狂乱することはない。

それはあたかも第一の矢は受けるが、
続けて第二の矢を受けることがないのに似ている。

それ故、
わたしの教えを聞いた弟子たちは、
苦受をうけても瞋恚を感じない。

そしてまた彼は、
そこで欲楽を求めない。

なぜかといえば、
比丘たちよ、
わたしの教えを聞いた弟子は、
欲楽によらずして苦受から逃れる方途を知っているからである。

そのため彼のうちに眠れる貪欲が彼を支配することはないのだ。

要するにわたしの教えを聞いた弟子たちは、
楽受をうけてもそれに繋縛されず、
苦受をうけてもそれに繋縛されず、
また、
非苦非楽受をうけてもそれに繋縛されることはないのである』

お分かりになりましたか?

愚かな凡夫も仏弟子も、
ともに第一の矢は受けるのです。

美しい花を見て
〈きれいだ〉
と思い、
石に躓(つまず)けば
〈痛い!〉
と思う。

それには違いはありません。

だが、
凡夫は続いて第二の矢を受けます。

美しい花を手折って家に持ち帰ろうとしたり、
石に躓けば腹を立てます。

それが第二の矢です。

仏弟子は第二の矢を受けません。

ただ〈きれいだ〉〈痛い!〉と思うだけです。

そして自然に忘れてしまいます。

したがって、
第二の矢を受けないようにすればよいのです。

釈尊はそう教えておられます。」(41頁〜44頁)

第一の矢を受けても

第二の矢は受けない

『気に入らぬ 風もあろうに 柳かな』
(仙厓和尚)

雲烟過眼

柳に風と受け流す

(推薦図書)
『坐らぬ禅』
(著者 ひろさちや 佼成出版社)
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