【一切行苦とは?】
【一切行苦とは?】
仏教教理を特徴づける根本的な教説である四法印の一つに『一切皆苦(一切行苦)』があります。
これは、どういう意味でしょうか?
『仏教要語の基礎知識』
(著者 水野弘元 春秋社)
の中に、こう書いてあります。
「一切行苦とは、一切皆苦、諸行皆苦ともいう。
五蘊・十二処・十八界などの一切の現象法が苦であるということである。
原始経典に現象法は無常であるから苦であるとされているのはそれである。
(中略)
諸行無常・諸法無我の命題は否定することのできない真理であると考えられるが、
一切行苦の命題は無条件に受け入れられない気もする。
現象界は苦だけでなく、
楽もあれば不苦不楽もあることは現前の事実であるからである。
それに苦楽は感情であって、
感情は同じ物や環境に対しても、
人によって時によって、
受ける感じが違う個人的主観的の面が多分にある。
故に現象のすべてが苦であるとはいえないであろう。
何故に一切行苦の命題が客観的真理であろうか。
元来、苦には苦苦・壊苦(えく)・行苦の三苦があるとされる。
このうち、
苦苦とは肉体的感覚的の苦であって、
打つ・切る・つねる・熱い・冷たいなどの痛撃による苦である。
痛覚神経をもつものならば、
人間でも動物でも等しく感ずる客観的の苦である。
この苦を常に感ずることはないから一切行苦とはいえない。
次に壊苦(えく)とは破壊損失などによって感ぜられる苦である。
貧乏したり、
老衰したり、
失望落胆したりする時に受ける精神的な苦である。
事物が衰え亡びることを苦と感ずることといえる。
しかし世の中は衰え亡びるばかりではなく、
栄え発展することもある。
逆境の苦もあれば順境の楽もある。
故に世の中は壊苦ばかりではないから、
この場合も一切行苦とはいえないことになる。
さらに行苦というのが一切行苦にあたる。
これは現象の法は苦であるということである。
現象の法も苦とは限らないが、
インド的・仏教的な考え方によれば、
三界六道への輪廻転生の迷いの生活は要するに苦であり、
迷いを離れ輪廻を脱した涅槃の状態のみが真の楽であるとされる。
この意味で、
現象が苦であるというのは迷いの凡夫にだけいえることであって、
悟りの聖者にとっては現象は苦とならない。
したがって一切行苦とは迷っている凡夫にとっては一切の現象は苦であるということである。
これは四諦の中の苦諦の説明で八苦が掲げられるが、
その最後の『五取蘊は苦なり』といわれるものと同じである。
(中略)
仏教では一切現象は苦であると説き、
四諦説でも苦諦を最初におき、
また十二縁起でも逆観は老死の苦から始められるというように、
苦を極めて強調するから、
西洋の学者の中には、
仏教は厭世主義(悲観論)を基調とするものであると批難する者があるが、
これは仏教の一部分しか見ないものであり、
仏教の理想が涅槃寂静という真実の楽にあることを見落としたものである。
元来、宗教は現実の苦しみ悩みを脱して無苦安穏の理想の境地を得させるものである。
この意味で宗教の出発点は不完全な現実世界を正しく見ることから始まる。
仏教が現実の苦や無常や不浄や凡愚などを観じて宗教心をおこし、
キリスト教が罪悪感から出発しているのはそれである。
もし現実に満足し、
現実の苦悩や不満を感じないならば、
宗教や理想を求めるということはあり得ない。
高い理想意識をもった者には、
現実は汚れの多い苦に充ちた不完全なものである。
そこに現実の不完全さを脱して理想に向かおうとする宗教意識や修行・努力が生ずる。
一切行苦は仏教の出発点であり、
仏教の宗教性を示すものであることが知られるであろう。」(151頁〜153頁)
仏教的な考え方によると、
涅槃寂静の悟りの境地以外はすべて苦です。
すなわち、
煩悩に囚われている間は、
一切皆苦です。
悟りを開いてはじめて至福に至ることができるというのが仏教的な考え方です。
迷いの凡夫と聖者の現実に対する認識は違います。
「他の人たちが『安楽だ』と言うものを、
聖者たちは『苦しみである』と言う。
他の人たちが『苦しみだ』と言うものを、
聖者たちは『安楽である』と言う。
法は知りがたいものであると見よ。
無知なる者たちは、
ここで迷うのである」(釈尊)
(推薦図書)
『仏教要語の基礎知識』
(著者 水野弘元 春秋社)
こちらをクリック↓↓↓
この記事へのコメント