【真人とは?】

【真人とは?】

『真人』とは何でしょう?

広辞苑に、こう書いてあります。

『まことの道を体得した人』

大辞林には、こう書いてあります。

『まことの道をきわめ、完全な道徳を身につけた人。
完全無欠の人格をもった人』

明鏡国語辞典には、こう書いてあります。

『①仏教で、真理を悟った人。仏や羅漢(らかん)をいう。

②道教で、奥義を悟り、道の極致に達した人。至人』

『真人』について、

『ブッダの真理のことば 感興のことば』
(訳者 中村元 岩波文庫)

の中に、こう書いてあります。

「・すでに(人生の)旅路を終え、

憂いをはなれ、

あらゆることがらにくつろいで、

あらゆる束縛の絆をのがれた人には、

悩みは存在しない。

・こころをとどめている人々は努めはげむ。

かれらは住居を楽しまない。

白鳥が池を立ち去るように、

かれらはあの家、この家を捨てる。

・財を蓄えることなく、

食物についてその本性を知り、

その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、

かれらの行く路(=足跡)は知り難い。――空飛ぶ鳥の跡の知りがたいように。

・その人の汚れは消え失せ、

食物をむさぼらず、

その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、

かれの足跡は知り難い。――空飛ぶ鳥の跡の知りがたいように。

・御者が馬をよく馴らしたように、

おのが感官を静め、

高ぶりをすて、

汚れのなくなった人――このような境地にある人を神々でさえも羨む。

・大地のように逆らうことなく、

門のしまりのように慎しみ深く、

(深い)湖は汚れた泥がないように――そのような境地にある人には、

もはや生死の世は絶たれている。

・正しい知慧によって解脱して、

やすらいに帰した人――そのような人の心は静かである。

ことばも静かである。

行ないも静かである。

・何ものかを信ずることなく、

作られざるもの(ニルヴァーナ)を知り、

生死の絆を断ち、

(善悪をなすに)よしなく、

欲求を捨て去った人、――かれこそ実に最上の人である。

・村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、

聖者の住む土地は楽しい。

・人のいない林は楽しい。

世人の楽しまないところにおいて、

愛著なき人々は楽しむであろう。

かれらは快楽を求めないからである。」(23頁〜24頁)

さらに、

『真人』について、

『自己を見つめる――ほんとうの自分とは何か――』(著者 山田無文 禅文化研究所)

の中に、こう書いてあります。

「この世で生活していく肉体的な自分は、

確かに自分そのものに違いない。

しかし、

そこにある真は刹那的なもので、

永遠ではありません。

永遠なる真実の自己とは、

その肉体の中に眠り続けているのです。

形のない、

姿のない、

色のない仏性が、

心の奥底にあるのです。

その仏性と、

現実に生活している肉体とがぴったりひとつになったところに、

本当の人生があるということです。

そのとき主体となるのは、

もちろん肉体じゃない。

仏性が自覚されるならば、

その仏性が主体となって肉体を使っていくのでなければなりません。

永遠の真理である仏性を主体としてこそ、

正しい生活ができるのであり、

立派な人生が建設されていくということであります。

(中略)

形もない、

姿もない、

色もない、

けれどもある。

人間お互いの心の奥底に確かにあるその仏性を、

臨済禅師は真人といわれております。

(中略)

このお互いの肉体の中には、

真実の人間がひとりいるということです。

その真実の人間とは、

位のない、

形のない、

姿のない、

色のない、

名前のない、

男でもない、

女でもない。

形もなく姿もないから時間と空間を超越し、

生まれたでもなく死ぬでもない。

また、

きれいでもなければ汚くもない。

善でもなければ悪でもない。

どういう人間のことばをもってしても説明できない、

絶対自由な創造的主体性であります。

人間の肉体の中に、

心の奥底にあるその永遠なる真実の人間は、

内にのみあるのではなく、

外界へ飛び出して活潑々地に働きます。

真人が外へ出るということは、

山がそのまま自分だ、

海が自分だ、

太陽が自分だ、

月が自分だ、

星が自分だ、

馬が自分だ、

犬が自分だ、

鳥も虫も花も、

森羅万象ことごとく自分でないものはない。

もちろん、

人類すべてが自分だと、

このように受け取って、

そこに深い愛情がわきあがってこなければならんということです。

外へ向かえば世界がすべて自分だと認識していく、

そういう空間を超え、

時間を超えて自由自在に働く偉大なる人格が、

人間ひとりひとりの内面にあるのです。

(中略)

真人とは無であります。

本来何もないのだから苦しみもないのです。

たとえていうならば、

鏡のようなものだと申せましょう。

炎が映っても鏡は焼けやせん。

洪水が映っても鏡は流されやせん。

何もないから、

何を映しても鏡は変わらん。

そのように、

心が無だとわかれば、

空だとわかれば、

生まれたといっても鏡に映った影、

喜ぶことでもない。

死ぬといっても鏡に映った影、

悲しむことじゃない。

病気だ、

老いたといってもすべては鏡に映った影のごとく、

心までが病気になり、

老いさらばえていくことはない。

心はいつも浄らかであります。

そういう永遠に変わらない真実の心を、

臨済禅師は真人と名づけられているのですが、

その真人が自覚されるならば、

たとえどういう問題が起こっても、

いっさい苦しむことはないのです。」(175頁〜177頁)

「臨済禅師がいわれている無位の真人を自覚するならば、

その真人が目となり、

耳となり、

鼻となり、

口となり、

手や足となって、

あらゆるものを創っていく。

立派な人間を創り、

平和な社会を創り、

理想の世界を創っていくのです。

形はない、

姿はない、

なにもないけれども、

そういう創造的主体性がお互いの心でなければならんということであります。

(中略)

お互いの心こそが、

太陽を創り生み出し、

月や星を生み出し、

海を創り、

山を創り、

この世のすべてを創り出していくところに、

本当の自由があるのです。

(中略)

無位の真人が、

ことばを換えて言えば仏心が、

この肉体を、

この煩悩だらけのお互いをひとつ叩き直して、

まず立派な人間となっていかねばならんのです。

そして、

家庭を立派におさめ、

社会を立派にしていくことです。

世界をわが家とし、

人類をわが子と見ていくならば、

公害のない、

病人のない、

戦争のない、

平和な世界を建設していかずにはおられんはずです。

そういう偉大なる創造的主体性をもった無位の真人こそが、

混沌とした現代の闇を救っていくものであり、

今日、

世界中が求めているものだと断言できると思うのであります。」(186頁〜187頁)

あなたも私も宇宙も、

同じものです。

私たちは、

ひとりの人間として局所化された宇宙です。

あなたも私も意識の海のさざなみです。

私は『それ』であり、

あなたも『それ』であり、

すべてのものが『それ』です。

すべては、『ワンネス』です。

人間の本質も、

宇宙の本質も、

意識であり、

宇宙意識のみが唯一の実在です。

本来ひとつである私たちが、

いがみ合ったり、

張り合ったり、

せめぎ合ったり、

戦ったり、

争ったりするなど、

愚の骨頂です。

世界平和と

人類全体の幸福を実現すべく、

共に真人の道を歩みましょう❗️

『すぐれた知識や徳を備えた真人は悟りの境地にあるから、

この世のつまらない邪念にとらわれることがない』

(推薦図書)
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『自己を見つめる――ほんとうの自分とは何か――』
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